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セミナー&シンポジウムの記録

2011年秋季・共同セミナー参加記
今井 宏昌 (総合文化研究科 地域文化研究専攻・IGK所属)

はじめに
2011年10月6日から10日にかけて、日独共同大学院(Internationales Graduiertenkolleg、以下IGKと略記)2011年秋季・共同セミナーが、ドイツ・ハレ大学で開催された。2007年9月から開始されたIGKプログラムは、本セミナーをもって5年目に突入することとなる。この間の欧州経済危機、そして2011年3月11日の東日本大震災とそれにともなう福島第一原発事故によって、日独をめぐる状況も大きく変わった。そうした変化のなかで、本プログラムが掲げる「市民社会の形態変容:日独比較の観点から」というテーマが、よりいっそう意義を増していることは間違いない。
今回の共同セミナーでは、2つの講義と3つのワークショップ、そして9つの学生報告がおこなわれた。そして実際にセミナーに参加した私には、それが全体として3つの機能を有しているように思われた。ここではいくつかの試みに関する私なりの実感と感想を踏まえながら、その3つの機能について述べてみたい。

研究紹介の場として:教員による講義と学生報告
共同セミナーがもつ機能としてまず挙げられるべきは、研究紹介の場としてのそれである。まず教員による講義としては今回、Patrick Wagner 教授(ハレ大学)が、戦後のドイツ連邦刑事局(Bundeskriminalamt)の歴史に関する研究プロジェクトを紹介された。もともとこの講義は、東京大学駒場キャンパスで開催された前回セミナーの最終日、まさに2011年3月11日午後におこなわれる予定だったものであり、半年前に震災で奪われたその機会が、今回改めてわれわれのもとに戻ってきた形となる。
プロジェクトの関心は次の点に向けられる。すなわち、戦後西ドイツで連邦刑事局が設立され機能してゆく過程において、その設立者世代のもつナチズムの過去は果たして克服されたのか、されたとすれば、それはどのような形でなされたのか。戦後(西)ドイツにおけるナチズムの過去をめぐる問題というと、例えば前世紀末のドイツ歴史家大会において、ナチ時代の「民族史」(Volksgeschichte)の過去と、その戦後への連続性が問われたことはまだ記憶に新しく1、また最近でも、これまで「潔白」とされてきたドイツ外務省(Auswärtiges Amt)のナチ暴力への直接的関与が明らかになると同時に、やはりそうした過去と戦後との関係が議論を呼んでいる2。同プロジェクトも、こうした研究潮流の一つをなすものといえよう。
Wagner教授によると、連邦刑事局における「過去の克服」は、その内部で徹底した制度改革と民主化教育がおこなわれ、またナチ時代の暴力経験を有する世代が引退していくなかで、比較的順調に進んでいったとされる。それゆえドイツの歴史家のあいだでは、これを「成功の歴史」(eine erfolgreiche Geschichte)とする見方が支配的とのことである。ただし討論の際には、左翼勢力に対する取り締まりの厳しさなどを指摘し、そうした支配的見解に疑問を投げかける声なども聞かれた。
ドイツ連邦刑事局の歴史は「成功の歴史」なのか? この問いかけは、そのまま戦後(西)ドイツ国家の自己認識にもつながる、きわめてセンシティヴな問題である。この点については今後さらなる議論が予測されるが、私などはまずもって、そうしたテーマが大々的な研究プロジェクトとして展開されていという事実そのものに、新鮮な驚きを感じた。日本で同様のテーマを正面から論じている研究は、はたしていかほどであろうか。
次いで今回もまた、従来のセミナーと同様に、学生が自らの研究テーマを報告し、日独双方の教員がそれにコメントするという学生報告の形式が採用された。この学生報告において、日本側の学生は基本的にドイツ語で報告し、ドイツ本国の専門家からの指導の機会を得ることとなる。私の場合、今回の報告を通じて初めて自覚するにいたったのは、自分の研究対象とする人物への認識と、ドイツ側における対象人物への認識とのズレであった。
私の研究の主眼は、これまで「ナチズムの前衛」として評価されてきたヴァイマル共和国初期の志願兵部隊・義勇軍(Freikorps)の再評価にあり、そのため共和派の立場から義勇軍に参加した社会民主党員のJulius Leberを対象人物のひとりとして設定している。しかしドイツ側からは、Leberは対象としてあまり適切でない、との指摘があった。確かに反ナチ抵抗運動の闘士として散ったLeberは、現代ドイツにおける「闘う民主主義」の元祖ともいうべき存在であり、彼を義勇軍という文脈で扱うことにドイツ側が違和感を覚えるのも、ある種当然のことなのかもしれない。ただ、こうしたドイツ側の常識では測り得ない問題に踏み込んでいく点にこそ、ドイツ人でないわれわれがドイツを研究することの意義があるのではないか、とも考える。いずれにせよ、こうした日独間の認識のズレに気づくことができたというだけでも、学生報告は私にとって非常に重要な機会であった。

相互理解の場として:市民/Bürgerをめぐる議論
次いで挙げられるのは、日独双方の相互理解の場としての共同セミナーの機能である。今回も「市民社会の形態変容:日独比較の観点から」というテーマに沿う形で、市民/Bürgerといった概念に関するさまざまな報告が日独双方の側からなされた。平松英人氏(ハレ大学)とMarianne Peuckert氏(同)が、それぞれ日本の明治・大正期と戦後の安保闘争期の輿論における市民概念(Bürgerbegriff)を検討されたのに対し、穐山洋子助教(東京大学)とWagner教授は、1970年代における日独の市民運動(Bürgerinitiative)の展開のなかで、市民/Bürgerという概念がどのように定義され、運動主体の自意識として位置づけられたのかを論じられた。
市民/Bürgerが必ずしも一対一の関係にないことは周知の事実である。しかしながらここでの議論は、もはやそのような点にとどまることなく、市民/Bürgerという概念の非同一性を認めたうえで、その歴史性を明らかにする方向へと歩みを進めているように思われる。そしてこうした営みは、市民/Bürgerという概念への理解を深めるのみならず、日独双方の社会およびその歴史的展開に対する理解の深化にもつながるものである。311の原発事故を契機として「脱原発」を推進するドイツと、当事国でありながらいまだ「再稼働」への道を模索する日本。そうした対称的な状況がなぜ出現することになったのかという問いは、今日いたるところで発せられている。その問いに答えていくための下地作りという意味でも、市民/Bürgerをめぐる議論を軸とした日独研究者間の相互理解は、今後ますます重要なものになるだろう。
また上記の報告が日独の社会・歴史をめぐる相互理解を促進する役割を果たしたとすれば、石田勇治教授(東京大学)の報告は、今日に生きるわれわれが市民/Bürgerをどのように理解していくべきかを考えるうえで、非常に示唆深いものであった。現在の日本でNPOなどの活動に携わる人々にとって、市民であることの第一条件は、もはやかつて言われたような経済的自立でなく、「他者への配慮」=「思いやり」(Compassion)であるという。そして石田教授は、このような普遍的価値観に基礎づけられた市民/Bürgerに注目し、彼らが主体となって構築する「市民の社会/Gesellschaft der Bürger」に今後の展望を見出されている。われわれが日独の社会を理解し解釈するだけの単なる傍観者ではなく、その担い手でもあることを考えると、この提言のもつ意味はきわめて大きいと感じられた。

討議の場として:日独の戦後と3.11後の現在をめぐって
共同セミナーがもつ最後にして最大の機能は、討議の場としてのそれである。ここにおいて参加学生たちは、「市民社会」にかかわる共通のテーマで議論する機会を与えられる。今回は「市民社会(で)の抗議と抵抗」(Protest und Widerstand (in) der Zivilgesellschaft)と題したワークショップがおこなわれ、戦後の日独において展開された空港建設・拡張をめぐる反対運動(成田とFrankfurt am Main)が議論の対象となった。最初にドイツ側の学生が議論の導入をおこない、その後日独双方の学生が混合する形で3つのグループをつくり、当時の新聞などの資料を読み込んだうえで、各グループ内で議論をおこなった。そしてその結果は全体討論において報告され、さらなる議論へとつながっていく。
前回のセミナー中、今回の参加者のほとんどが地震と原発事故の当事者となったこともあり、議論は専ら「脱原発」をめぐる日独双方の市民運動の高まりという目下の状況をオーバーラップする形で進められた。特に私のいたグループでは、直接行動をともなう反対運動と議会制民主主義との関係に、議論が推移していった。
成田での反対運動の場合、まず立ち退きを命じられた農民たちが反対の声を上げ、それに政党や学生が同調するという形で闘争が展開されていった。しかし訴えが政治に反映されずに農民たちの不満が高まり、またそれにともなって新左翼が台頭し運動が急進化していくなかで、政党は次第に運動から距離をとり始める。そして最終的に農民たちの声が議会政治を動かすことはなく、反対運動は新左翼運動とともに下火になっていった。グループ内ではこの事例を踏まえながら、現在の日本の脱原発運動が同じ経緯を辿る危険性を孕んでいるのではないかとの問題提起がなされた。
確かに現状を考えてみても、「原発再稼働」に流れる議会と「原発反対」を唱える街頭での運動との溝は深まるばかりである。今後、脱原発運動が急進化していく可能性も、わずかながら考えられよう。ただしその一方でドイツに目を向けると、そこでは運動が政治へと反映され、「脱原発」路線が確定的なものとなっている。それは何故なのか。ドイツ側から出されたのは、外政面でも内政面でも「脱原発」のための合理的なヴィジョンが上手く提示されたからではないかとの意見であった。
翻って、果たして日本の脱原発運動は合理的なヴィジョンを有していないのだろうか、という疑問も浮上する。私はデモのいち参加者として、自分も含めて情念的に動く人が多い反面、「脱原発」後の社会を見据えた合理的なヴィジョンを上手く提示できていないのではないかと述べた。ただし情念が運動の原動力であり、それ自体は否定されるべきでものではないという点は、その後の全体の議論でも確認された。問題は、それをどのようにして議会を通じた制度改革へとつなげていくかという点にあろう。そしてこの点こそまさに、「市民社会」に課せられた重要な使命であるように、私には思われる。

おわりに
以上、私個人の実感と感想を踏まえながら、研究紹介の場、相互理解の場、そして討議の場という、共同セミナーのもつ3つの機能について述べてみた。現行のIGKプログラムは2012年8月をもって一旦終了し、同年9月から新たに「学際的市民社会研究に向けた日独共同教育体制の構築」プログラムとして継続されることが決定している。ただしこれまで見てきたように、現行のIGKでもそうした「構築」はある程度なされており、すでに「日独共同」でなければなしえなかったような、新たな視座の獲得が達成されている。
今後IGKはどのような展開を辿るのであろうか。その長期にわたる蓄積と成果が、日独双方の市民社会研究、そして市民社会そのものの発展に寄与することを願ってやまない。

註:
1. この点については、石田勇治『過去の克服:ヒトラー後のドイツ』(白水社、2002年)の第7章第3節「問われだした歴史学の「過去」」を参照。
2. Eckart Conze [u.a.], Das Amt und die Vergangenheit. Deutsche Diplomaten im Dritten Reich und in der Bundesrepublik, München 2010.