main graphics
Top > セミナー&シンポジウムの記録 >参加記 12'夏季・共同セミナー(ハレ)

セミナー&シンポジウムの記録

2012年夏季・共同セミナー参加記
石﨑 瑠璃子 (総合文化研究科 地域文化研究専攻・IGK所属)

はじめに
 2012年7月13日から17日にかけて、ハレ大学にて日独共同大学院プログラム(Internationales Graduiertenkolleg:略称IGK)夏季・共同セミナーが開催された。2007年9月のプログラム発足以来、毎年春(東京大学)と秋(ハレ大学)に行われてきた共同セミナーだが、今回は夏に開催される運びとなった。現行のプログラムは5年間という規定の期間を全うし、2012年9月から「学際的市民社会研究に向けた日独共同教育体制の確立」を企図して、新たな段階へと歩みを進める。通算して10回目となる今回の共同セミナーは、これまでのIGKプログラムの道程を締め括るひとつの節目であるとともに、後継プログラムへの橋渡し役を担うものであったように思う。
 セミナーでは、ワークショップ、公開講演、プログラム参加学生による研究報告が行われたほか、ハレ大学側の学生の好意でハレ市内の州立博物館見学などが企画された。以下では、5日間にわたるセミナーの内容について、順を追って振り返ってみたい。

1日目
 初日は、「アジアにおける市民社会Zivilgesellschaft in Asien」をテーマとして、4名の客員教授によるワークショップが行われた。ここでは、韓国(ブロック1)、ベトナムおよび中国(ブロック2)の3カ国が取り上げられ、各々の持論が展開された。
 まず前半ブロックの中で、シン教授(ベルリン自由大学客員教授)は民主化のプロセス及び民主制との関わりから韓国の市民社会について論じ、政治に対する市民の関心や意識が高まっている一方で、政治を担う政党の改革力が欠如しているという韓国社会の現状を指摘した。また、同じく韓国の市民社会を論じたハン教授(テュービンゲン大学客員教授)は、市民社会が形成されていく過程で、教会がどのような役割を演じるかという点に着目した議論を提示した。その後、社会主義体制下の市民社会という枠組みの中で、ヴィッシャーマン氏(GIGA Institute of Asian Studies)がベトナム社会を、ヘベラー教授(デュースブルク=エッセン大学)が中国の社会を扱った。 ブロック1で民主政体の韓国社会が論じられた際には「市民社会」という概念そのものが問われることはなかったが、社会主義国家が扱われた後半ブロックでは、両講演とも「市民社会」とは何かという問いから出発した。ヴィッシャーマン教授は、規範的な市民社会像を求めるのではなく、その時代その土地ごとに異なる市民社会が存在しているものと想定し、市民社会の形成に益する行動・行為を個々に探っていく必要性を論じた。ヘベラー教授は、民主制を採らない一党独裁政治国家においても市民社会は成立し得るとした上で、民ではなく国家の主導によるトップ・ダウン構造の市民社会形成の可能性を提起した。以上の4講演の後、最終ディスカッションへと移り、1日目の日程は終了となった。
 それぞれまったく違う切り口から論じられた講演だったが、インターネットの普及が市民社会の発展に及ぼす影響など、部分的に重なり合う論点もあった。個人的には市民社会の前提とされる公論形成と情報化の関係が気になるところだが、現代市民社会を対象とする以上これは避けては通れない論点であると思う。今後開催される共同セミナーでもより深く掘り下げた議論がなされることを期待している。

2日目

 翌日は、「ソーシャルキャピタル」をテーマとするワークショップが開かれた。この日は、2つの講演のあと、グループディスカッションが行われた。
 ザックマン教授(ハレ大学)の講演では、最初に、ソーシャルキャピタル概念を用いることで市民と国家の関係はどのように呈示され得るかという問題が提起され、ブルデューPierre Bourdieuをはじめとしてソーシャルキャピタルに関する理論を展開した論者たちが取り上げられ、各々のソーシャルキャピタル概念及び理論が概観された。ここでは、この概念が1980年代に起こった新しい概念であり、一致した見解があるわけではないことが確認されるとともに、経済資本及び人的資本と分かちがたく結びついている点が指摘された。次にシュミットポット氏(フランクフルト大学客員研究員)が、日本の町内会・自治会などの住民組織についての講演を行った。ソーシャルキャピタルの指標とされる連帯感・信頼感といった要素を検討する際、そうした日本の地区組織は格好の考慮対象となるようだ。シュミットポット氏は、日本の町内会組織の誕生(1890‐1920)、組織の普及(1920s)、戦時中の隣組制度(1938‐1945)、戦後の新たな自治会組織の誕生(1950s‐現代)という4つの段階に分けて歴史をたどり、それぞれの段階で住民組織と市・町政がどのような関係にあったか、そしてその関係がどのように変化していったのかについて論じた。
 その後、学生はグループに分かれ、これら2講演の議論を踏まえて1時間のグループワークを行い、最終的にグループディスカッションの内容を任意で発表しあった。グループワークでは、あらかじめ用意された議題に沿って話し合いが進められた。
私の参加したグループでは、「日本における自治会・町内会などの近隣住民組織はソーシャル・キャピタルを形成しているか」という設問に対して肯定の立場でそのほかの設問に臨んだが、否定の立場をとったグループもあった。どちらの立場をとるかによって、その後の話し合いの展開がまったく異なるものになることに驚くとともに、そこにグループディスカッションの面白さも感じた。
 セミナー終了後は、セミナー室の前のテラスでバーベキューを楽しんだ。講演の内容やグループディスカッションを振り返って引き続き議論に花を咲かせるグループもいれば、自分の研究テーマや関心事について紹介し語り合うグループもいて、皆思い思いに親睦を深めていた。

3日目・4日目

 セミナーの中盤となる3日目は、シュプロッテ氏(ハレ大学)の講義と日本側の学生3名による研究報告、4日目は学生3名の研究報告が行われたのち、山脇直司教授(東京大学)による公開講義、そしてパネルディスカッションへと移った。
 3日目の講義は、震災後の日本における風評被害を取り上げたものだった。震災といえば2011年の東日本大震災が真っ先に思い浮かぶことと思われるが、シュプロッテ氏は1923年の関東大震災も引き合いに出しつつ、風評とその影響力について言及した。ここでは、「災害katastrophe」「風評Gerücht」という言葉がどのように定義づけられるかという点からはじまり、公報の信憑性・政治への信頼の確保、迅速な情報収集、被害拡大に対する警告など、風評対策の指標について論じられた。誰もが常に風評にさらされていると思うが、震災関連の風評は特に深刻である。嘘かもしれないが本当かもしれないという確証のなさこそが、風評の恐ろしさのように感じられる。緊急時には特に、あいまいな情報に振り回されることなく自分の頭で物事の実態を見極めるための努力が必要だが、そこでは信頼できる情報源の確保が求められるべきだろう。
 3日目の講義の後、4日目の午前は、IGKプログラム登録学生計6名が各自の研究内容を発表した。本プログラムは市民社会の形態変容という共通研究課題を掲げているが、参加学生の専攻は歴史学、社会学、哲学など多彩である。普段は同じキャンパスに通っていても、他専攻の学生と交流する機会はほとんどない。しかし、この共同セミナー中の学生報告の時間は、さまざまな分野の研究について知り、自分の研究に関して発表し、多様な意見を聞く機会を得ることのできる場として貴重なものである。
 学生報告後は、1968年以降の日本とドイツの市民社会の比較をテーマとして、山脇教授による公開講演が行われた。公開とあって本プログラム関連外の教員や学生も訪れ、セミナー室は聴衆で埋まった。講演中、東大闘争の様子が映像で流され、日本語を解さない人も興味深げに目を見張っていたのが印象的だった。その後、日独両サイドから計4名の教授をパネリストに迎え、活発な議論が繰り広げられた。
 そのほか、3日目の午後は学生報告のあとにセミナーは組まれておらず自由時間となっていたが、ハレ大学の学生が企画してくれた博物館見学に参加した。

5日目

 最終日は、ドイツの現代史研究の現状に関するワークショップが開かれた。朝10時から夕方18時まで、1人の講演者が1つのテーマでワークショップを担当するというスケジュールには戸惑う人も少なくなかったように思う。既に述べたが、参加者の専門は必ずしも歴史学というわけではなく、少なくとも文学専攻の私自身は歴史学の専門知識が要求されるのではないかという不安を抱いていた。しかし、担当者のポウトゥルス氏(ハレ大学)はまず「現代史」とは何かという入門からはじめ、現代史研究がどのように展開してきたかというプロセスをたどり、最後に現在の研究動向へと話を進めていってくれたため、全体的な流れをつかむことができた。当初の不安は払拭され、ドイツ現代史についてより深く知りたいと思うまでに好奇心をかき立てられる結果となった。
 最後に、共同セミナーの総まとめとなる最終討論の時間が設けられていた。討論というと堅苦しく聞こえるが、実際には学生からの忌憚のない意見が募られ、和やかな雰囲気の中で行われた。日本人学生のドイツ語能力・言語の問題は毎回話題となるが、今回もそれが取り上げられた。セミナーは基本的にすべてドイツ語で行われるため、聴くにも話すにも日本側の学生にはかなりの負担が強いられる。ときにはコミュニケーションがうまく取れないといった事態も起こるが、今回は両言語に長けた学生たちの自主的なサポート態勢のおかげで、円滑に進行したという意見が寄せられた。これも、本プログラムが積み重ねてきた経験と反省の成果ではないかと思う。

おわりに

 2010年の秋季合同セミナーから参加し始めた私にとって、今回は5回目のセミナーであったが、回を重ねるごとにセミナーの充実度が増しているように感じられる。それは、運営・企画の労をはじめ、学生・教員の相互派遣を通じて培われた言語運用能力や相互理解の向上によるものだろう。今後、IGKはこれまでの日独比較という観点からさらに視野を広げた学際的研究を目指すプログラムへと移行することになるが、これまでの経験を活かしつつさらなる発展を遂げてゆくと確信している。