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セミナー&シンポジウムの記録

2013年秋季・共同セミナーシンポジウム 参加記
網谷 壮介 (総合文化研究科 国際社会科学専攻・IGK所属)

 2013年10月2日~6日の5日間にわたって、東京大学とマルティン・ルター・ハレ・ヴィッテンベルク大学が合同で主催する日独共同大学院・秋季共同セミナーが開催された。これまで本セミナーでは、歴史学や政治学、社会学、哲学など様々なディシプリンから日独の市民社会について取り扱ってきた。今回は「ドイツと東アジアにおける市民社会と政治的な喪の儀式」、「過去のテーマ化」に関する2つのワークショップが行われ、さらに日本人学生による6つの個別研究の発表が行われた。比較研究の範囲を日独から東アジアとドイツ、ヨーロッパという風に拡大させ、より国家・文化横断的な視点から市民社会研究へとアプローチする必要性が示されている、あるいは、日独それぞれの視点を相対化する枠組みのもとでテーマ設定がなされていると言えるだろう。実際に、日独の研究に従事する研究者だけではなく、韓国の研究者、日本の韓国研究者にもセミナーに参加していただき、多国間・学際的な議論が展開された。
 また、2013年4月以降、日独共同大学院プログラムは2期目に入り、ハレ大学・東京大学の双方から新規のメンバーを迎えることとなった。そこで、初日の午前中には本プログラムの紹介、今後の展開について議論が行われた。政治思想史を研究している執筆者の個人的な関心から言えば、これまで本プログラムの参加者は歴史学・政治学の研究者が多かったのだが、今回は哲学や社会学、政治理論を研究する人が若干増えたので、今後はいっそう本プログラムの市民社会研究において経験的領域と理論的領域を往還・横断するような取り組みが期待される。

 セミナー二日目・三日目はマンフレート・ヘットリング教授(ハレ大学)とティノ・シュルツ氏(ハレ大学)の企画によるワークショップ「ドイツと東アジアにおける市民社会と政治的な喪の儀式(politischer Totenkult)」が開催された。両者によるイントロダクションによれば、「政治的な喪の儀式」という枠組みのもとで扱われるのは、ある社会が戦争によって亡くなった人々をどのように扱い、それはどのような効果を持たされていたのか、あるいはどのように戦死が正当化されたのかという問題である。さらに、近代社会においては、敵国・自国の戦没者という区別に加えて、とりわけ市民・兵士という区別も喪の儀式に関して研究を進めていく上で重要になる。というのも、近代以前の社会では軍人のみが戦争に参加したが、全面戦争においてはあらゆる人が戦争に関わったからである。研究の前提となるのは、こうした「政治的な喪の儀式」が記念碑において具現されるということである。したがって研究においては、記念碑、記念碑の製作者の意図、記念碑の受容という3つの側面を区別し、具体的にそれらを調査することが要求される。ヘットリング教授とシュルツ氏は、「政治的な喪の儀式」という枠組みを採用して着目するべき問題の領域を、2つ設定した。それは第1に、政治的秩序の正統性の問題である。より詳しく言えば、そこには政治的正統性と政治的参加という問題領域が開かれる。「政治的な喪の儀式」には市民社会あるいは国家のアイデンティティの確立、つまり正統性の創出につながる機能があるが、他方でたとえば事実上あるいは想像上の敵に関係して非正統化の方向へと働く機能もある。また、大衆化の時代、国民国家的な大衆が登場した時代以降、戦時下の統治は人民を戦争へと参加させなければならないが、それは同時に、戦争と平和についての決定が人民の承認に大幅に依存するということをも意味している。「政治的な喪の儀式」に関して研究される第2の問題圏は、市民社会との関係である。兵士に対して文民という意味で理解された市民概念は、戦争あるいは戦死に関してどのような意味を持つのか、ということが問われる。近代以降の社会の視点からは、市民の参加、個人化というモーメントが重要となるだろう。

 このようなイントロダクションを受けて、ホ・ケウン・ヒョイ教授(ソウル大学)が「朝鮮における分断された記憶の集合体」、クラウス・ミュールハーン教授(ベルリン大学)が「国共内戦期の中国における殉死・革命の儀式の誕生」というタイトルでそれぞれ発表を行った。日本とドイツはそれぞれ第二次大戦の敗戦国であり、互いの負の歴史を共有し、それに対する批判的な見方を研究者らは取ってきた。しかし朝鮮・中国という日本の隣国における「政治的な喪の儀式」の研究に触れると、今までの認識の視座が相対化され、それまで見えてこなかった歴史の問題を突きつけられるように感じられ、日本人参加者からもさかんに質問がなされていた。ヒョイ教授の発表では、朝鮮が冷戦構造――つまりアメリカ・日本とソ連――のなかで「分断」されるなかで、どのように国立の共同墓地を設立し、あるいはどのようにそれが「下からの」市民的なものでありえるのか(ありえないのか)と問う点、さらに日韓だけではなく中韓の歴史的・文化的(宗教的)な交わりにまで話がおよび、非常に興味深かった。また、ミュールハーン教授の発表は、戦争の記憶というよりも革命――国家創設の戦い――の記憶がどのようになされるのかを問うており、「政治的な喪の儀式」が革命の事態の進行により変遷していく点が示され、一枚岩としては到底見ることのできない歴史のダイナミズムが感じられた。

 二日目の午後には、日本研究の視座からティノ・シュルツ氏が「日本の国家的な戦没者追悼――靖国神社問題」、ニコール・テルネ氏(ハレ大学)が「日本の原爆被害者――1945年以降の民間犠牲者の社会的地位」というタイトルで発表を行った。シュルツ氏の発表では政治と宗教の問題が取り上げられ、テルネ氏の発表では戦争を超えて生き残った人々らの間に生じる社会的な格差・分断の問題と戦争の記憶の関係が論じられた。そして、三日目には、ドイツにおける第一次世界大戦以後の「政治的な喪の儀式」が取り上げられ、市民社会が記念碑の設立を促した側面や、「ドイツ戦没者墓地管理団体(Volksbund Deutsche Kriegsgräberfürsorge)」の活動、ドイツ連邦軍における記憶の形式、DDRにおける政治的な記念碑についての発表が行われた。
 発表を聞いていると、確かに「政治的な喪の儀式」というテーマ設定をすることで、政治と戦争、宗教、記憶、アイデンティティといった複雑な関係を市民社会とのつながりを保ったまま論じることが可能になることがわかり――というのも大衆化して以降の近代社会においては記憶の主体はもっぱら大衆に委ねられる/委ねられなければならないから――、各国の比較史的な研究領域を開くこともできるのだと知見を得られた。しかし、その反面で、イントロダクションで語られた方法論の一部であった「記念碑の受容」の観点について、記念碑の記憶という受容のされ方ではなく、記念碑の忘却という観点があってもいいのではないかと感じた。「忘却」という人間に固有の現象をどのように歴史学が扱えるのかは分からないが――アンケートなどによる量的研究がありうるだろうか――、戦争や革命という非日常的・例外的な状態の直後にその記憶のために立てられた記念碑が、その後社会が日常性を回復していくにつれてどのように忘却された(されなかった)のかということは、今後そのような非日常的な事態が起きたとき――例えば津波による原子力発電所のカタストローフ――それをどのようにうまく記憶として定着させていけるのかということを考えるときに意義深いように思われたからである。

 この記憶/忘却の問題に関して、セミナー四日目には、石田勇治教授(東京大学)、ヒョイ教授、ヘットリング教授、シュルツ氏によるワークショップ「過去のテーマ化」が行われた。日本、韓国、ドイツのそれぞれの立場から、日独の過去が政治によってどのように扱われてきたのかということについて議論がなされ、言わば三つ巴になってお互いの歴史認識の差異が提示されるなかで、政治的なイデオロギーに奉仕するような一つの語りに回収されない、多層的・相対的な歴史認識の視座の必要性――特に、昨今日独両国で高まるナショナリスティックな「過去の精算」の議論を念頭に置いてなされたものだが――を感じた。「過去のテーマ化」とはまさに歴史学者の仕事であるが、発表された研究者の方々からは、歴史学の正当な研究の領域以外で跋扈する、イデオロギーによって捏造されナショナリズムを煽動するような歴史観に対して、どのように歴史学者が関わっていくのかという問題意識が強く見られたように思われる。過去を簡単に精算し、過去に対する現世代の責任を切り捨てるような政治的言説に対して、歴史学教育の市民社会への重要性についても言及されていた。執筆者は、質疑応答の最後に、いくぶん不躾な、挑発的な質問をした。それは、なぜ過去の責任を現世代が引き受けなければならないか、忘却は悪いことなのか、あるいはなぜ過去を学ぶ必要があるのか、ということである。後者を敷衍して言うと、こうなる。ドイツの歴史家ラインハルト・コゼレックの大枠の図式を借りるならば、近代以前の歴史概念が循環するものであったのに対して、近代・啓蒙の時代の歴史概念は一方方向に伸びていく進歩を前提としている。そうした見方が概ね正しいとすれば、近代以前の歴史概念においては、過去は未来のいつかある時点に循環的に再現されるのであるから、確かに過去を学ぶ必要があっただろう。しかし、近代以降のリニアな歴史概念において、未来は過去の否定であり、それは過去とはいつも異なった仕方で現れるのだとすれば、歴史学を学ぶ意味はどこにあるのか、という疑問である。市民社会は世代間で断裂しているわけではなく、連綿と受け継がれて存在している限り、歴史を学び、学ぶことによってその責任を果たす、果たし続けなければならないということが、市民の役割――ホイ教授は確か倫理的な役割とおっしゃっていた――だということ、また、過去の過ちを繰り返さないためにも歴史が学ばれなければならないということ、これが頂けた解答であった。執筆者は18世紀のドイツ政治思想を研究しており、それは常々、純粋な経験的な歴史研究でもなく、あるいは純粋な現代的・理論的な研究でもない、しかし現代とつながった過去の思想を研究する営みであると感じていた。そして、そのような思想史の研究の「意義」を――例えば研究資金獲得のための申請書類などで――書く場合、あるいはアカデミックな場には属さない友人らからその研究の「意味」を尋ねられる場合、少々困惑していた。今回のワークショップでは、現代史を研究されている方々からこうした疑問(というか悩み)について考えるときの、ひとつの方向性が得られたように思われる。

 最後になるが、セミナー四日目には、外村大教授(東京大学)が「戦後における日本の植民地支配の表象」という発表を行い、戦中・戦後を通して日本の知識人(例えば矢内原忠雄)がどのように植民地支配を表象してきたのか、昨今の歴史教科書問題にも踏み込みながら論じられた。討論では、市野川容孝教授(東京大学)やヒョイ教授を交えて、知識人と市民社会、政治的イデオロギーとの関係から議論が展開された。ドイツ語、日本語、韓国語などが飛び交い、それぞれお互いに通訳し合いながら議論を丁寧に進めていく様子は、英語帝国主義とは程遠い多文化的な学問の場を形成していたように思われる。
 セミナーへの参加は、今回で3回目だが、日独共同大学院プログラムのように際立って学際的で、多国間的な討議の場は極めて貴重なものだと改めて認識した。研究領域によっては、経験的な記述へと特化することもあるだろうし、あるいは抽象的・思想的な記述へと特化することもあるが、単純にそれらが二分化されて分断されるのではなく、両者がお互いに疑問や反論を行う中で、自分のディシプリンにのみ伝わるだけでなく、他のディシプリンにも広がっていくような議論を練り上げることが可能になるだろう(もちろんこのことはディシプリンのみならず、言語共同体という面でもそうだろう)。「市民社会」という歴史的かつ理念型的な分析枠組みのもとで――しばしばその概念の曖昧さが問題となり、再びそこにむけて定義的・抽象的な思考が及ぶことも重要だと思う――様々な研究者が集い議論する空間が開かれているということ、このことの意義を再認識したセミナーであった。