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セミナー&シンポジウムの記録

2014年春季・共同セミナーシンポジウム 参加記
田村 円 (総合文化研究科 地域文化研究専攻・IGK所属)

学生セッション:市民社会とマイノリティ
「加害者の国」でマイノリティとして生きること

 今回の2014年IGK春季共同セミナーで日本のマイノリティを論ずる学生セッションに関わるなかで、とくに戦後日本に留まった朝鮮人―以下で在日コリアンと表記する―の問題に興味を持って取り組んできた。私自身は戦後西ドイツに在住するユダヤ人―以下で在独ユダヤ人と表記する―とドイツ人の和解の問題を研究の対象としており、在日コリアンと在独ユダヤ人は果たして比較研究できるだろうかという問題意識をもってこのセッションに加わった。たしかに、前者は日本の植民地支配の犠牲者、後者はナチによる迫害とホロコーストの犠牲者であり、両者を安易に比較できないことは明らかだ。だが彼らが日本とドイツに留まることは「加害者の国」に生きることを意味した。その意味で、いずれもホスト社会における定住外国人や移民の問題一般に還元できない歴史的存在である。以下では、セッションの準備と議論を通して得た気づきから、両者のアイデンティティの問題について考えてみたい。
 在日コリアンは朝鮮半島の同胞と日本のはざまに、在独ユダヤ人はイスラエルの同胞と西ドイツのはざまに位置するという構図において両者は類似している。戦後初期、「加害者の国」に留まる者に対し同胞は無理解・非難の眼差しを向けたが、同胞にある種の「後ろめたさ」を感じてきた両者は、同胞の役に立つべく貢献することを重視した。朝鮮半島―あるいはそこに誕生した二つの国家―と、イスラエルとの結びつきは、旧加害国に住むディアスポラである彼らにとって拠り所だったのである。居住国との関係においてはどうだろうか。西ドイツでは自国の民主主義を証明するために在独ユダヤ人の存在が必要だったが、マジョリティ社会では未だ反ユダヤ主義が伏流していた。日本では対外的にも在日コリアンが日本の民主化に必要不可欠な存在と見なされることはなく、むしろ彼らは日米両政府から共産党のシンパと見なされ、しばしば排除の対象となった。このような孤立した立場で彼らはいかなるアイデンティティを持つことができたのだろうか。
 ナチ体制以前から長くドイツに暮らしてきた「ドイツ・ユダヤ人」生存者に、東欧諸国出身のユダヤ人生存者が加わった戦後の在独ユダヤ人社会だが、そもそも「在独ユダヤ人」とは、「ドイツに在住する」ユダヤ人を表すだけでなく、「ナチ時代に共に苦しんだ」ユダヤ人というアイデンティティをも付与された戦後の新たな呼称だった。すなわち、この名の下でドイツ・ユダヤ人と東欧のユダヤ人に呼びかけられた、双方の出自の違いを越えた連帯の根拠となったのは、ナチ時代の苦悩体験だった。 また、一部のドイツ・ユダヤ人のなかには、イスラエルと西ドイツの架け橋、新生ドイツの民主主義の番人としての積極的な存在理由を自らに見出す者もいた。
 これに対し、植民地支配の被害者であり旧宗主国での被差別者という共通の歴史的出自に連帯を促すような在日コリアン・アイデンティティは形成されたのだろうか。あるいは、朝鮮と日本の架け橋、日本の民主主義の担い手という意識を彼らは持ちえたのだろうか。これらの問いに対する現段階での私の答えはいずれもノーである。故郷が南北に分断されたことで在日コリアン内部にも亀裂が生じたこと、さらには民族教育の権利も奪われたことは、前者を妨げた大きな要因となった。だが冷戦の影響がなければありえたかもしれない前者に対して、植民地支配に対する反省どころか朝鮮人への差別意識が根強く残っていた日本政府と日本人マジョリティのことを考えれば、後者は不可能だっただろう。
 このように書くと、一見在独ユダヤ人のアイデンティティ形成は成功し、在日コリアンのそれは失敗したと見えるかもしれないが、決してそうではない。今なお両者とも若い世代も含めてアイデンティティの葛藤を抱えている。ここには日独のマジョリティ社会が向ける彼らへの眼差しが作用しているのだ。
 日独の歴史的産物である両者の存在は、双方のマジョリティにとって心の安寧を乱す存在といえるだろう。マジョリティ側が向き合いたくないような、負の過去と結びつく記憶の忘却に警鐘を鳴らす不快な「証人」として、彼らはときに立ち現れるからだ。彼らに対する有形無形の排除や攻撃の圧力は、マジョリティ側の防衛機制的な反応ともいえるのである。
 むろん、在独ユダヤ人の声に耳を傾けるべきだという道義的要請が少なくとも公に存在する現在のドイツ社会と、そのような公的規範が形成されてこなかったばかりか、なぜ在日コリアンが日本にいるのかその歴史的経緯も知らない日本人マジョリティ社会を同列に置くべきではないだろう。だが、在日コリアンと在独ユダヤ人はともに、マジョリティ側の自らの過去に対する意識を映し出す鏡であるという点で共通する存在なのである。